




西九条 ブランニュー
メタルセッションでした。前回も思いましたが、メタルセッションのレベルが全体的に落ちてきている感じが否めなくなって来ました。特にボーカルはもっともっと頑張らないと……。見れた範囲内での話ですが、この日のライブで一番良かったボーカルさんはトリのゲストバンドさん。ついで初ボーカルステージのライダー。東京遠征の方、鬼灯……と言った感じでした。
ミュージシャンはアーティストじゃない
いつごろからか、音楽家を指してアーティストと呼ばれるようになりましたが、そもそも音楽はアートではなく、エンターテイメントであるべきなんです。もっと身も蓋もない表現をするなら娯楽でしかない。だから、演奏技術の上手い下手ではなく、ステージの強さが求められるわけなんですよね。
ライダーがセッションバンドの中で一番よかったのは、ライダーが歌が下手なのを自覚していて、それを何とか補おうと必死にステージを考えて来たからなんですよ。本人は確かに笑われたかもしれませんが、お客さんはそれだけ楽しんだ。演者側は娯楽の提供が仕事であって、その仕事を一番しっかりとこなしたボーカルが彼だった事は疑いようがないです。
歌のある演奏は、歌い手がステージの全てを握ります。バックなんて飾りです。どれだけバックがよくても、歌い手が棒立ちであればそこに楽しさなど生まれる訳が無く、逆に、どれだけバックが酷くともボーカルが、それを全てネタに変えるパフォーマンスにできていればそこに楽しさが生まれます。
音楽は娯楽です。会場全体が音を楽しんでいなければ音楽ではない。1ステージ20分。その間、どの角度を切り取っても、どの瞬間を切り取っても楽しさが無ければ、それは音楽とは言えないんです。自分を知らない人が、自分のステージをみて「あぁ、楽しかった」と言ってもらえるだけのことをやっているか。それだけの準備をしたか。そういった部分は、もちろんメタルセッションに出る人に限らずですが、皆で考えていかなければならないのではないかなとおもいます。
プレイヤーとリスナー
そもそもからして、このプレイヤーとリスナーなどと言う分け方が音楽に対する誤解の元ではないかなと思います。二者に分けるから、演奏する方は凄くて偉いみたいな勘違いを生み出しているのではないかと。聞いて楽しむ音楽など存在しないんです。
歌を聴いて、いい歌だなと思う。そして歌詞カードを追いながらCDを聞く。この時、人は頭の中で必ず歌っています。特定の楽器を追う時も頭の中では必ずその音に近いものが流れています。手拍子だったり、合いの手だったり、拳を上げたり、体をゆらしたり……それらの全ては演奏なんです。ステージの上と下という差はあれど、会場にいる全ての人はプレイヤーであって、リスナーなど一人としていません。ただ、演奏する技術がなくて、演奏に参加するには合いの手とか、一緒に歌うとかぐらいに制限されてしまいますが、その制限されたもののうちから、一緒に演奏できるものを引き出すのが、ボーカルとしての仕事ではないかなと思います。そして、それこそが音楽という娯楽のあるべき姿なのではないかなとおもいます。
とにかく、音楽は芸術などと言う座からさっさと叩き落して、たかが娯楽であるというシンプルな地点に立たねばならんとおもいます。特に演者側は娯楽を提供しているのであって芸術を提供しているわけではないという事を、もっともっと理解するべきではないかなと思う次第です。芸術であると考えると「高尚な活動」を目指してしまい、本質を見失う。凄くない。音楽は決して凄くない。ただ楽しいものでしかない。聞こえる範囲の人が楽しめるものでしかない。そこに夢を見続けている限り、音楽に恋をし続けている限り、演者としては一つの壁を越えられないと思います。
余談
バンド名を実力の基準にする人が、少なからず演者側に居ることにも嘆かわしさを覚えます。演奏する側であれば、バンド名よりも、一緒に合わせてみて理解するべき点であるのに。
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