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自分の生死観

tag:死生観 価値観 哲学 
 自分の生死観をまとめねばならないと思ったので、思いつく範囲でまとめてみる。なお、これはあくまでも自分の生死観であって、他の人とは大きくズレている実感はあるので、不愉快にしてしまったらごめんなさい。

原則として持っているもの

  • 死んだ人間にすることなど何もなく、生きた人間の為に全ては存在する
  • 生きるための知恵の集合こそが宗教である
  • 今、この瞬間のみが生である

 本来ならば死生観とすべき日本語である。死を通して生を見る。死生観とはそういう意味だ。しかし、自分は生を通してしか物事を見れない。故に生死観ととらえてしまい、そもそも人間として自分はズレがある。

 また、生とは戦うことであると捉えてる節がある。すなわち、戦いを基準にし、あてはめなければ自分は物事の判断ができない人間である。いつぞや母が自分の名前を姓名判断にかけたとき「刀傷の有る名前」と称されたらしいが、つまりはそういうことだろう。

死んだ人間は喜ばない

 追悼や供養という行為がある。これは死んだ人間の為にすることではなく、生きた人間がそうすることで心の重荷を解放する行為である。お葬式はまた別の意味で、葬儀を出すことで残された側が、死んだと理解する手順、手続きに他ならない。

 よく「死んだ○○が喜ぶと思っているのか」と言うような話をされる。が、正直、死んだ人間は決して喜ばないし悲しまない。酷い言い方だけれども死人に口なしなのだ。残されたものが、死んだ人間が何も言わないのをいい事に、勝手に喜んだ事にしたり、悲しんだことにしたりしている。自分の視点からすれば、「死んだ○○が喜ぶとでも」といった会話は死者への冒涜に映って仕方がない。

 さて、霊能者などが「供養を怠ったため体の具合が悪くなっている」といい、墓参りを進めることがあるが、これは否定しない。冒頭で述べたとおり、供養は残された側の為の儀式である。供養を怠ったゆえに体の具合が悪くなる人は、供養をしなかったことが心のどこかに引っかかっている信心深い人である。そういう人は幽霊などの存在を信じやすいため、自称霊能者の口によって、供養を進める事はその人の健康の為にも良いことといえる。病は気から、である。

 以前までは故人の事を良く知らない人が「ご冥福をお祈りします」というのは何かおかしいと思っていた。社交辞令が嫌いというのもある。しかし、先日祖母が他界した際、「ご冥福をお祈りします」とコメントをいただいた時、心が少し軽くなった。言葉の表面上は、あくまでも故人の為だが、その中身は残された遺族を心遣かう気持ちの表れなのだなと理解した。

死人に口なし

 面白い話だが、死んだ人間を大事にしようと言う人ほど、信用が出来ない。

 追悼をやると言っておきながら、故人とその人を引き合わせた人物を呼ばない。故人の為にとまとめたお金を、形式以上に使わず、残りを分配せず着服する。故人の為に、生前あれこれお世話したというが、そんな事実は無い。

 共通しているのは、自分の記憶を自分の都合の良いように改変し、自分の感情が世間の常識だと言い張り、そして配慮に欠ける点である。彼らは自分の行動を正当化するために、死んだ人間をダシにつかう。本人らに悪気は無い。しかし、喋らないのをいい事に捏造をしてしまうのはこの類の人間であり、取引をする相手としては信用できない。弔い合戦などはこの最たる例で、自身の気を晴らすための行為にもかかわらず、死者を大義名分に使う。敵討ちをすることで、無念が晴れるのは故人ではない。敵討ちを行った本人である。

 逆に死んだ人間の為にと言わず、自分の為に動く人は信用できる。受け入れるにしても自分のペースで受け入れるし、気持ちを打ち明ける時も正直に言う。故人が喜んでいないからといわず、私はあなたの顔も見たくないとストレートに言う。ありもしない事を根拠に喋る人間と、そうでない人間。どちらが信頼できるかは無論後者である。

宗教

 色々と書いたが、この生死観は日本的な生死観とは非常にかけ離れている。周りの人たちと会話していて本当にそう思う。キリスト教徒であろうと仏教徒であろうと、喋れない故人の気持ちを勝手に代弁する人間は居る。恐らくは、民族的なものなのだろう。

 自分の生死観は、どちらかといえば西洋のそれに近いように思う。ダンスマカブルこそは、まさに自分の生死観といえる。死んだ人間を拒む事無く、共に踊る。人によってはホラー映画のワンシーンに映ることだろう。だが、これが受け入れ方なのだ。

 宗教、特に葬式はその土地、地方に合わせた弔い方を提供している。弔いとは、つまりその人が死んだことを受け入れる為の手順である。

 死んだ人を食べる弔い方がある。死んだ人を鳥に食べさせる弔い方がある。死んだ人を燃やす弔い方がある。死んだ人をただ埋める弔い方が有る。

 人によっては食人は野蛮と言うだろう。だが、自分に言わせれば弔い方に貴賎をつけるその行為の方がよっぽど野蛮といえる。食べるのは、食べることによって受け入れるのはもちろんだが、野獣をおびき寄せないためでも有る。火葬も同様で疫病の原因にならないうちに処理し、出てきた骨は居なくなったことを告げる面もある。死者は死んでなお、友人の心と体を守るのだ。

 屍に鞭打つという故事が有る。これも一種の葬式で、殺したかった相手が先に死んでしまったことを受け入れる為の行為だったといえる。

生きている人間は死ぬまで生きろ

 今のみが生である。この刹那的考えも、西洋的なのかもしれない。狩猟民族ほど今に生きるが、農耕民族は計画を立て一年を生きる。

 自分で言うのもおかしいが、この生き方は野蛮だ。理性的ではないと思う。動物的といってもいいかもしれない。すぐに諦めるが、すぐに受け入れるためでも有る。自分の力が及ぶ範囲では全力を出そうとする。その為に、自分の力ではどうしようもないと感じたことはさっさと受け入れる。

 こういう生き方を始めてから、あまり悩まなくなった。今ここに生きよ。崇息観は自分の生き方に似ている……。

特に何か伝えたかったわけじゃない

 ただ、自分の考え方をまとめておいた方がよさそうな気がしたのでまとめてみた。

 共感する人は直すなら今のうち。自分みたいなダメ人間になると思う。

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